時折「宗教は何故あるのだろう」と考えることがあります。
それは私がたまたま信仰深い方々と接する機会が多かったため、考える機会が何度かあったからです。
「そんな事わざわざ触れなくてもいいじゃん」と思うのが普通ですが、密に関わっていく相手を理解することは大切だと思うのでよく考えます。
以下はあくまでも個人的な見解です。
客観的に見て思うのは「心のゆとりを持つために」信仰をしているのではないかという事です。
人は自分で判断できないような大きな出来事に遭遇してしまうと進路に迷ってしまい、少なからず不安を感じます。
そういう時、自分より優れている人や、大人数が進む方向を参考にして判断をするでしょう。
宗教の場合そのような「優れている人 」や「大人数が進む方向」というのが『神』だったり『教え』だったりする場合が多いと思います。そのようないわゆる『理想的なもの』を、信仰の対象とする事によって安心を手に入れているのではないかと思います。
わかりやすく絵を描いてみました
つまり「自分では判断できないような迷いの状態にあるとき、理想的なものを信仰することにより、安心を手に入れて心のゆとりを持とうとする」という事ではないのでしょうか。
これが今私が考えている、宗教がある理由です。
この構造は他の事にも当てはまると思うのです。
例えば、あなたが好きなミュージシャン、スポーツ選手、作家、タレント、デザイナー、偉人・・・などなど、 何か特定の物を支持しているとき、少なからず心にゆとりが生まれると思うのです。
それはその特定の物があなたに常に感動を分け与えてくれるからなのか、またはあなたの指針となってくれているからなのか、あなたにとって利益を与えてくれる存在だからなのかもしれません。
そう考えるとこれらの事も宗教と同じように思われます。
宗教の場合は、その内容が人の本質的な部分を問うような壮大なものであったり、信仰の対象が実体の無いものであったりするため、宗教をしていない人とのギャップが激しく感じるのかもしれません。
これらの事より、人にはそれぞれ信じる物があり、それによって「自分らしさ」を築き上げてライフスタイルをも築き上げます。なので信仰する事や支持するという事は、社会で生活していく上で当然な行為なのだと思います。
ところで、もしこの「信仰する物」や「支持する物」が自分から消えてしまった場合はどうなるのでしょうか?
何らかの理由があり、今まで信じていたものが無くなってしまうのです。
その時は、信じる対象を「自分」に移して進んで行くようになるのだと思います。
自分で考えて進んで行くのでしょう。
この信じる対象を「自分」にするという事も、一種の宗教的行動ではないかと思います。
「自分」を肯定して一番信じれるのは結局「自分」なのだと思います・・・
長々と書きましたが、これが最近のようじ教の宗教観でした。
最後までこの話に付き合ってくれてありがとうございました・・・
それでは今日はこの曲を聴きながらお別れです。ごきげんよう。