2016年11月26日土曜日

型枠大工と野球少年

どうもようじ教です。


2014年の8月から型枠大工をして、今年2016年の8月に辞め、現在無職に至ります。


無職です。


今11月末なのでもう4ヶ月近くTHE✩NEETです。これはまずい・・・


しかしありがたいことに、色んな方が心配して下さり、「ウチで働かないかい?」など、声をかけて頂きました。本当にありがとうございます。

今すぐにでも働きたいところなのですが、今、今後の進路を考える上でどうしてもやっておきたい事があるのです。
どういう事かは今後徐々に報告していきたいと思います・・・。
なので皆様どうか暖い目で私を見守ってください!よろしくお願いします!


さて、この2年間型枠大工を経験してきたのですが、、、



ポワワワワ~ン(回想の音)



とりあえず、キツかったです・・・

普通の高校を卒業して、地元の大学に通い、そしてしばらく事務作業がメインの仕事をしていた私にとって、現場は違う世界でした。



①自然の脅威

当たり前ですが、外の仕事なので、夏は死ぬほど暑い、冬はクソ寒い、雨が降ったら濡れる。という日々の繰り返しでした。

私はそこで建築物のありがたさをわかりました。

建物の影で涼めることや、室内で暖を取れること、そして屋根の下で雨を防げることなど。
しかしそれらは、その建物を作るときに、ある人が、死ぬほど暑い思いをしたり、クソ寒い思いをしたり、雨の中びしょ濡れになりながら作業をしてくれたお陰なのだと知りました。

建築物を作る人々に尊敬の念を抱くようになりました。


②建材などの脅威

また、建材や足場や工具などは、私たちの日常生活で使うような商品のように安全ではありません。何かしら突起していたり、鋭利な刃物のような部分があったり、足場の上は狭くて高かったりします。
それらは作業効率や経済性を考えた上、そのような性質になっているので、正しく使わないと怪我をします。


私はそのような危険と隣り合わせな環境をカッコイイと思いました。
日常では全く味わえないようなスリルが、当たり前のようにあるのです。

工事現場はロックマンのステージみたいだとよく思いました。


下手するとティウンティウンと音を立てて死んでしまうのです。

そのような環境が実は身近にあったという事は、最初は衝撃的でした。



③タフな人々

このように色んな違いを見せつけられた世界では、やはり人も、今まで会ってきた人達とは違いました。
非常にタフで、男臭いです。このような環境なので、やはりそれに適応できるように進化していったのでしょう。
物の考え方なども、とてもシンプルで、「やる事をやる」というような感じの人ばかりでした。

現場はほとんど男性しかいなく、唯一女性がいるのは、弁当屋のおばちゃん(たまに姉ちゃん)が弁当を売りに来るときぐらいでした。

この弁当屋の存在は現場では非常に重要な存在で、現場の職人達の膨大なエネルギーを支えていると言っても過言ではありません。
いかに安く、かつ量があり魅力的な弁当を作れるか、そして、サービスそばを充実させるか、それらを朝早くから準備できるのか、など、弁当屋も本当に工夫し、一生懸命働いてくれているのだと思いました。

やや話が脱線しましたが、現場で働いている人はそんな感じでした。

あ、あと、基本的に皆口が悪いです(笑)
まあ何ていうか、人が良いだけでは現場では生きていけないのです(笑)



そのような環境でしたが、もちろん良い事もたくさんありました。

①外で仕事をすることの開放感

先ほど述べた自然の脅威もありますが、やっぱり我々は動物なので、外で体を動かすという事は本能的に嬉しい事なのだと思います。

晴れて涼しい日は風が気持ち良いですし、高い場所から街を見下ろしたり景色を楽しめます。

また、汗をかき、筋肉を使うので、運動不足による心配などは基本的にしなくてもいいと思います。

とある日の休憩場所。ここで昼寝をする。

②基本的に残業はしない

よっぽど忙しい時ではない限り、定時には帰っていました。
理由としては、遅くまで仕事しても暗くて視界が悪くなりますし、疲れているので怪我のリスクも高くなるからでしょう。

なので、毎日仕事で一汗かいた後、夕焼けでオレンジ色になった街を原付に乗って帰るという日々を送っていました。この時の「ふう~。俺、今日も仕事したな。」感はハンパないです(笑)。

でも基本的に型枠大工の休みは日曜日だけなので、どちらかというと休みは少ないのかもしれません。
せめて公休日だけでも休みになったらいいのになーとよく思いました。


そんなこんなでとりあえず2年型枠大工をなんとか続けました。
「えっ!?2年って短いんじゃないの!?このエセ大工!」と、思うかもしれませんが、2年は短いです。スイマセン・・・。

「型枠大工が一人前になるには3年以上かかる」と言われています。
私はそれより1年早く辞めてしまったのですが、正直言うと、3年かかるのは、「型枠の技術的に」というよりも、「現場という環境に慣れる。そのシステムを知る。」という事や、「職場の人々からの信頼を得る」という事の方が大きいのではないかと思いました。
そんな事は別にどの仕事に対しても言えることなのかもしれませんが。

それで、私は「長くいればいいってもんじゃないかなー」と、

ぶっちゃけ思いまして、

また、その時、色々と仕事を一旦ストップしてやりたい事もあったというのも重なりまして、

辞めました。

というわけで今に至るわけです。

しかしながら、2年と言えどもやはりキツかったです!

逆になぜ私が2年続けられたのかというと、小中高と野球をやってきたというのが一番大きい要因だったと思います。

野球部はそれこそ年中外でどんな環境下でもそれなりの鍛錬を行うような部活でした。
しかも私は野球がマジで下手くそで、よくエラーをして監督や仲間から叱られていました。でもそのおかげで精神的に強くなったのではないかと思います。

このように子供の頃からマジメに部活に取り組んでいて、成人して、その成果がこんな形で現れるとは思いませんでした。

実際現場で働いているとき、「野球部で良かった~」と思うことはよくありましたし、なぜか夜寝ている時に野球でエラーをする夢を見てうなされる、という事がよくありました。たぶん深層心理であの頃を思い出していたのでしょう。

つまり私が思ったのは、「部活を頑張った経験は社会人になっても役に立つ」という事と、「野球部は現場で働ける」という事でした。


余談ですが、小中高と野球をやったにも関わらず全然上達しなかった私が最終的に思ったことは「俺、球技向いてないわ」という事でした。
それはなぜなのか?単純に「球」より「自分」に興味があったからだと思います!!
野球部のみんな!ごめんね!





と、こんな感じで色々と思い出していたら、またしても長くなってしまいました。
最後まで読んでくださってありがとうございます。

しかしそれでもまだ書きたいことが沢山あるほど、現場で体験したことは濃かったです。

これらの事は、私の人生の中では非常に大きな勉強になりました!

今後はこの経験などを生かして、進んでいきたい所存であります!

今後とも皆様どうぞよろしくお願いします!!




それでは最後に、関係ないけど、家のベランダから撮れた、バイクの上で器用に寝る人の写真でお別れです!
さようなら!


2016年11月10日木曜日

ようじ芭蕉


富士山の 近くを歩いて チョーベリグー

(訳:富士山の近くを歩いていると、チョーベリグーな気分になったことだよ。)


ん・・・?おや、すいません。ついつい一句読んでしまいました。
どうも、ようじ芭蕉です。

私は今山梨県にいるのです。
いとこの結婚式のついでに山梨県を一度観光してみようと思いまして河口湖にやって来ました。



河口湖といえば富士山の近くの湖である富士五湖の一つとして有名ですが、富士山がとても綺麗に見えます。
私の心の奥底で埃を被っていた芭蕉魂に火がついてしまい、ついつい一句読んでしまいましたよ。



今回の旅のお供を紹介します。
マウンテンバイクの「曾良号」です。
曾良号は近くのレンタイサイクルで一日1500円で借りれます。


という事でいざ出発!




面八句を庵の柱に掛置く







河口湖はかなり広し。ボートなどで遊ぶ人もありけり。



湖周辺にはホテル群が競って立ち並び、絶景を求め沢山の人が泊まりけり。


なんでもないただのトンネルでさえも素晴らしい景色であり、私の目には泪が浮かんでいた。

トンネルを 抜けるとそこは 河口湖

(訳:トンネルを抜けるとそこには河口湖が広がっていた事だよ。当たり前だよ。)


巨大な湖を囲む巨大な山々。そこには大きな雲の影が散らばりけり。
まるで人間の小ささを諭すかの、ごとし。


河口湖周辺を曾良号に股がり散策していたが、飽きけり。
同じく富士五湖である山中湖が心にかかりて、そこに向かわんとす。



河口湖から離れると、すぐに、「富士急ハイランド」がありけり。
私はとても絶叫マシーンに乗りたいと思ひけり。
しかし、入場料等もろもろ含めると一回乗るだけで2500円掛かりけり。
私の目には泪が溜まり、泣く泣く、そこを離れる。





しばらく曾良号に股がり、一時間ほど移動するが、何も無し。
またしても飽きが来けり。
何か趣深いものでも無いかと辺りを見渡す。


近くに、大きい神社がありけり。

名をば「浅間神社」と言い、富士山を祀った神社といふ。
富士山は崇拝の対象にもされている事を知り驚く。



参道にはヒノキともスギとも知れぬ巨大な木が生えけり。
共同住宅五階建てほどの高さがありけり。


神木として祀られている巨大ヒノキ


本殿


この浅間神社はまだ日本各地にたくさんあるという事を知り、さらに驚く。

我が国の 心にそびえる 富士の山

(訳:日本人の心には富士山がそびえ立っているほど、それをとても誇りに思っているのだよ。だからこの付近のお土産コーナーには富士山のポストカードばかり売っているんだよ。)




しばらくして、ひもじくなりけり。
道の駅に寄り、うどんを食べけり。
麺のコシの強さに泪する。

おうどんや コシがシコシコ 美味しけり

(訳:おうどんのコシがシコシコしていたので、とても美味しかった事だよ。)




そして山中湖の近くに辿り着きけり。


このような山道を曾良号でひたすら進まんとす。


道には栗が沢山落ちており、裸足でこの道を歩くことを想像するだけで、目に泪が浮かばんとす。




そしてまたしても一時間の道のりの上、やうやく山中湖に至る。



眼前に広がる山中湖。
またしても巨大な様は、やはり人間の小ささを諭すかの如し。

きょうだいの 仲睦まじき 富士五湖かな

(訳:富士五湖の「巨大」な湖は、仲良しなので、まるで「兄弟」のように似ているのかな。
というか山中湖と河口湖の違いは正直よくわかんないよね。との事だよ。)



山中湖にも辿り着き、やがて日が沈まんとする時刻になりけり。
寒さも出てきたので道中を引き返すことにす。


往復30キロの道のりを曾良号に股がり移動す。



途中で「山梨宝石博物館」という博物館に入りけり。



展示していた宝石が寄生獣のミギーに少し似ており泪す。
山梨県は宝石産業が盛んという事を知り、意外だったので驚く。




そして長い旅を共にした曾良号とも遂に別れの時がやって来。
返却の後、電車に乗り、今回の宿のある笛吹市へと向かふ。



途中で「日本三奇橋」の一つの「猿橋」というものを知り、それを見るべく大月市にて下車する。
約五キロの道のりといふので歩いて向かふ事にす。


最初は人気のある道中でありけり。



しばらくすると、人気も無く、街灯すら少ない田舎道に出る。



辺りはまだ夜七時であるにも関わらず、暗闇に包まれ、自分がどこにいるのかさへもわからぬ状況でありけり。本気で目に泪が浮かびけり。

夜の田舎道 他人さえも あたたかい

(訳:夜の田舎道では、知らない他人でさえも、すれ違うとほっとするとの事だよ。それくらい怖かったとの事だよ。)



一時間ほど歩くと、やうやく猿橋に辿り着く。



橋は全長十メートルほど有りけり。
造形は古風な様であり、橋の付け根に屋根が交差しているやうなものが有り、非常に趣深い。

橋の造形に見とれながらも、この場所が少し山中であることや、近くに鳥居などがあることから早くも帰りたいと思ふ。



古くから 月夜に掛かる 猿橋かな

(訳:昔の人々も月夜に照らされた猿橋を見ながら趣を感じていたのかな。
ところでこの素晴らしい写真をポストカードにして購入しませんか?との事だよ。)


猿橋を後にし、体の疲れも感じ、本日の旅をこれにて終わりとす。




いかがでしたか?
この後ようじ芭蕉は笛吹市の健康ランドに泊まったという記録があります。

それにしても今回はたった一日だけでも非常に大変な旅だったということが伝わってきますね。
しかし、本物の松尾芭蕉はこれよりも何百倍もの距離を移動したという記録が残されています。

我々の先代の偉人には素晴らしき旅好きがいるのですね。ああ、その事を思うと目から泪が・・・


それでは今日はこのへんで。さらば芭蕉!